書籍『帰らぬつばさ、春を待つ鳥たち、70年の回想』

帰らぬつばさ~ほろびゆくコウノトリの挽歌

林 武雄 著作3部 『帰らぬつばさ、春を待つ鳥たち、70年の回想』

書籍『帰らぬつばさ~ほろびゆくコウノトリの挽歌』

  平成元(1989)年3月15日、株式会社ぎょうせい
  ISBN4-324-01682-8

書籍『私の野鳥記 春を待つ鳥たち』

  平成19 (2007)年11月15日、日本鳥類保護連盟福井県支部、出蔵印刷所

書籍『私の野鳥記 70年の回想』

  平成25(2013)年3月20日、出蔵印刷所

帰らぬつばさ~ほろびゆくコウノトリの挽歌
帰らぬつばさ
~ほろびゆくコウノトリの挽歌
私の野鳥記 春を待つ鳥たち
私の野鳥記 春を待つ鳥たち
私の野鳥記 70年の回想
私の野鳥記 70年の回想

入手方法について

 『帰らぬつばさ~ほろびゆくコウノトリの挽歌』については、発行年が古いため、公共図書館あるいは古書のインターネット通販などの方法を検討してください。

 『私の野鳥記 春を待つ鳥たち』『私の野鳥記 70年の回想』については、以下の記事のとおり、2014年の時点では、著者の手持ちがあるとのことでした。ただし、現在も著者に連絡を取って入手することが可能であるかについては不明です。

著者について

○上記3部作以外の主な著書
『福井県の鳥獣』(共著)
『鳥たちの四季(第55回愛鳥週間「全国野鳥保護の集い」記念誌)』(編集委員長)
『絶滅のおそれのある野生動物(福井県レッドデータブック動物編)』(企画委員兼鳥獣部会長)

○著者略歴
昭和7(1932)年 福井県粟田部町に生まれる。
昭和22(1947)年 南越野鳥の会を結成。
昭和24(1949)年 日本野鳥の会会長の中西悟堂氏の勧めで福井支部を設立。
昭和38(1963)年から平成元(1989)年まで27年間、福井県職員として鳥獣保護行政を担当。自然保護課長補佐、鳥獣保護センター所長を歴任。
コウノトリの保護、カスミ網による野鳥の密猟根絶、愛鳥教育の推進に努める。
退職後は、自然塾「きびたき自然の会」を主宰。その後、財団法人日本鳥類保護連盟福井県支部に組織を変更。自然保護運動や愛鳥教育活動に従事している。
公益財団法人日本野鳥の会名誉会員
公益財団法人山階鳥類研究所賛助会員
日本鳥学会永年会員
環境庁環境カウンセラー

○主な役職歴
財団法人日本鳥類保護連盟専門委員
財団法人日本鳥類保護連盟評議員
財団法人日本鳥類保護連盟理事
財団法人日本鳥類保護連盟福井県支部長
環境省自然公園指導員
福井県環境アドバイザー
福井県環境審議会委員(特別委員)
越前市環境審議会委員

○主な受賞歴
昭和47(1972)年 福井県職員功績賞
昭和59(1984)年 福井県職員功労賞
平成2(1990)年 財団法人日本鳥類保護連盟総裁賞
平成13(2001)年 福井新聞文化賞
平成18(2006)年 中日新聞社「中日教育賞」
平成22(2010)年 越前市文化功労者

3部作まとめての書評

書籍『帰らぬつばさ~ほろびゆくコウノトリの挽歌』

 著者のコウノトリの保護活動の大半を、時系列に即して、具体的にとりまとめたもの。福井県におけるコウノトリ保護の全容が記された貴重な記録と言える。

 昭和32(1957)年3月初め、福井県武生(たけふ)市に2羽のコウノトリが飛来し、以来、著者のコウノトリに関する活動が始まった。超望遠レンズ付きカメラで撮影した写真を駆使しながら、その生態を詳細に観察。地元住民の協力を得る一方、県の鳥獣行政担当者として国や県と掛け合い、学識経験者との連絡を取りながら、様々な活動を展開。やがて福井県は県鳥にコウノトリを指定。

 しかし、様々な努力にも拘わらず、農薬汚染による被害が進み、人工飼育に踏み切るための捕獲も失敗に終わり、県鳥としてのコウノトリは、昭和41(1966)年に姿を消してしまう。著者も書いているが、正にレイチェル・カーソンの Silent spring に描かれた状況がそこにあったと思われる。
 その後、昭和45(1970)年12月、1羽のコウノトリが飛来し、翌昭和46(1971)年2月、それを捕獲することに成功。兵庫県豊岡市に送り、人工飼育を委託する。著者のコウノトリ保護の直接的な活動はそこで終わりとなるが、その後、昭和63(1988)年7月、17年ぶりに豊岡市を訪ね、保護したコウノトリと対面し、自身のこれまでの活動について回想するとともに、自然保護の在り方について思いを巡らすところでこの本は完結している。

 しかし、このコウノトリには更にドラマが続く。それについては、次の『私の野鳥記 春を待つ鳥たち』第4章「回想編」の一節「コウノトリ今昔」に記されている。

書籍『私の野鳥記 春を待つ鳥たち』

 著者が、折に触れて綴った随想をとりまとめたもの。新聞、雑誌、自ら主宰した自然観察会の会報誌などに掲載されたものだが、その一つひとつに、著者の自然や自然保護についての誠実かつ一貫した考え方が現れていて、少しも古さを感じさせない。時系列ではないが、読み進めていくうちに、著者の経験や学びにはどのようなものがあったのかが明らかになっていく。コウノトリの保護、カスミ網による野鳥の密猟根絶、愛鳥教育の推進に努めた著者の考えが随所に現れている。そして、どのようにして思索が重ねられ、著者の見識が形をなしていったかも読み取ることができる。

 前述の通り、コウノトリ保護の後日談については、第4章「回想編」の一節「コウノトリ今昔」に記されている。捕獲したコウノトリ(前著帰らぬつばさでは愛称“コウちゃん”、豊岡では出身地にちなんで“武生”)はメスで、保護されてから34年間も生き続け、多摩動物公園からやってきたオスの“多摩”とペアになり、1羽のひな“紫”が誕生。何と115個産卵されたうちの1個からの誕生。“紫”は、10年後、オスの“茶白”とペアになり、4羽のひなが誕生。その後、程なく“武生”は老衰のため死亡。数々の感動と教訓を残して死亡した“武生”は剥製にされ、福井に里帰り。著者は、展示オープン式典にて、“武生”に感謝のことばを述べている。

 また、第4章「回想編」には「ツグミたちの墓標」という一節が収録されている。著者は、県職員として長らくカスミ網による密猟の摘発に携わることになったが、猟の終焉を象徴するものとして、カスミ網猟の犠牲になった数知れないツグミたちを供養するための碑を探し当てたときのことが記されている。
 カスミ網による密猟摘発の実際については、次の著書『私の野鳥記 70年の回想』第2章「鳥獣行政時代」に詳細に記されている。

書籍『私の野鳥記 70年の回想』

 改めて、著者が、自身の人生を回想し、心に残っていることを取りまとめたもの。第1章「私の生い立ち」、第2章「鳥獣行政時代」、第3章「回想の日々」の3章からなる。

 前述したように、第2章「鳥獣行政時代」は、県職員として長らくカスミ網によるツグミ密猟の摘発に携わることになった95ページにも及ぶ詳細な記録である。その生々しさは、当時の様子を知らない者には、衝撃的ですらある。

 これを読み、トキ保護に多大な功労のあった石川県の村本義雄氏を訪ねたとき、氏からうかがった話を思い出さずにはいられなかった。

 村本氏は、「かつては、野鳥は食べるものというのがこの辺りの常識でした。そして、あの眉丈山には、かつてトキが営巣し、この辺りを悠々と飛んでいたのです。その風景を取り戻すためには、この常識を根本から変えていく必要があります。野鳥は、捕って食べるものでなく、見て楽しむものなのだと。愛鳥教育の必要性はここにあります。」と、切々と話されたことを今でも鮮明に記憶している。

 著者は、鳥獣行政の担当者として、地域に長らく続いてきた慣習そのものと正に格闘したのだと言えよう。そして、それを終焉に向かわせることで、愛鳥教育の新たな道筋を切り開き、功労者の一人となったのだと言えよう。

 今日、愛鳥教育を、「野鳥を通した環境教育」と定義することができるのも、このような歴史的な経緯があってのことであり、著者をはじめとする多くの功労者の努力の賜でもあることを改めて知ることができる貴重な記録である。